富山・いのちの教育研究会

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 例会と講演  生命の揺らぎ・・・ある地方人の死生観・・・

生命の揺らぎ・・・ある地方人の死生観・・・

第48回定例会 富山・いのち教育研究会 概要


 1 日 時  平成22年11月27日(土) 13時30分~16時00分
 2 場 所  射水市小杉勤労青少年ホーム 2階 講習室A
 3 参加者  10名           

4 日 程  

   ( 1 ) 開会の挨拶と講師紹介(稲葉茂樹会長)      13時30分~13時45分

今年も後、一ヶ月余りとなりました。皆さん大変お忙しい中、ご出席いただきありがとうございます。
立野先生からご講話を戴く前に、今年度へ入ってからの当会の活動経過を簡単に振り返って見ます。
9月23日にはファミリーパークでいのちの塔の2周年記念イベントを開催しました。当会からは長井、太田、林の3氏が企画や準備、進行に協力いただいています。また、9月28日には高岡市立国吉小学校で金森俊朗氏の模範授業を参観し、氏の講演を聴きました。示唆されるところの多い内容ある研究授業と講演でした。また、県教育委員会のいのちのホームページについては、今年度もこの編集に森田氏、赤尾氏、石倉氏、杉高氏、大道氏の5人の方にご努力を戴いています。以上のご協力に感謝申し上げます。
さて、今日は立野先生にご多用のところおいでいただきました。先生のご経歴についてはお手元の資料にあるとおりです。昭和25年にお生まれになり、立命館大学、慶応大学をご卒業後、民間の会社に勤務されたあと、富山県立高校教員となられ、更に県教育委員会の生涯教育学習室、県民カレッジなどで要職をお勤めの後、県立高校の教頭、校長として、県立高校教育に貢献されています。最後は県の公安委員会など警察関係の要職をお勤めになっておられます。現在は県立図書館長として、また国際大学の講師としてご活躍中です。その他、職場関係の種々の委員会や文学関係のいろいろな機関の役職を担うなど幅広く社会に貢献されています。
著書としては資料に記されている様々なものがあります。私はその内の『齧りかけの林檎』の中に収められた10編の作品(花の首、樹下の骨、停車場、潤んだ目、シャクナゲ、黒い向日葵~祈り~、ウルビーノ・風の声、老樹、滅鬼の桜、齧りかけの林檎)を読ませていただき感動しました。そして、私たちの関心事である「死を見つめて生をどのように生きていくか」ということについて貴重なヒントをいただきました。資料では先生は「趣味」の中に文芸創作と書いておられますが、文芸創作については先生の場合、趣味の域をはるかに超えておいでになります。先生は作品の中で、自分の使命は何であろうかと悩んでおられる様子を描いておられますが、先生ご自身は使命をすでに自覚なさっておられる様子が窺われます。同時に、生きる意味を問い続けるその姿勢は私どもの範とすべき姿勢でもあります。先生は作品以外にも、少林寺拳法など数々の武道に精進し、奥義を究めてこられましたが、そこにも「如何に生きるべきか」を求め続ける姿勢が感じられます。このような様々なご体験から奥深い貴重なご示唆をいただけるものと喜んでいます。このように素晴らしい先生に本会の講演をご依頼くださった水上先生にも感謝申し上げて紹介の言葉に代えます。

   ( 2 )  講 演 概 要                    13時50分~15時20分
 演 題 「生命の揺らぎ~ある地方人の死生観~」
         講 師  富山県立図書館長 立野 幸雄 氏
 今程はご丁寧な紹介をいただき痛み入ります。皆さんの中には高校同級の安井先生や他、既知の方、また尊敬申し上げる水上先生もいらっしゃる。最近は越中文学について北日本新聞などで「越中文学の情景」など書いている。それにつれて越中文学に関心が高まり各方面から執筆や講演の依頼がいま相次いでいる。
今年度は退職の年で、穏やかな気分で職場を去りたいと考えていたが、今までの私の人生の中でこんなに忙しいのは初めてと思う。月に2,3回の講演を引き受け、国際学院大学では教職関係の講義を担当し、とにかく目が回りそうである。
・今日はこの会でのテーマであるいのちということに私自身非常に敏感に受け止めているので文学から少し離れて私自身の生き方からいのちについて話したい。
・私は図書館に勤務してから特に地域文学に関わるようになった。それは好きだからと言うよりも現役時代最後の図書館勤務が自分の使命感にふさわしい仕事として取り組んだことから始まった。
・図書館には地域関係のものが書庫に多くあり、好きなものもそうでないものもここ3年間、多く読んだ。
・私の専門は中世の説話文学であるが、今日の話しでは、なぜ本を読んだり書いたりする衝動に駆られるかを考えてみたい。そのことで文学とは何かについて触れることにもなると思う。追い立てられるような過ごしかたをした若い時と違い、年老いてからの読書は、何かそこに死に裏付けられた生を感じて引き込まれていくと感じられることが多いように思う。
・私は年を重ねるごとに、老いることの大切さを考えるようになってきた。私はなぜか何人もの若い人の死に出会って、彼らはその時点の苦しみや悩みを、いつまでも続くと捉えたり、諦観して抵抗することなく受け止めて、諦めて挫折したり、様々である。どうにもならないという思い込みに陥っている。
・人生は川の流れに譬えられている。その川はいつまでも同じ流れではない。若い時は本流の中で無我夢中で、容易に正しく自分を見定められないが、年を重ねると、その流れも下流に至って穏やかになり、来し方を振り返り、深く見つめて考えることができる。周りを眺めながら楽しむこともできる。
・今の若い人たちには、年老いることは楽しみに多く出会える機会なのだと、老いることの積極的な意義を教える必要がある。生き続けることが楽しく意味深いことであると大人の姿で示すことである。青春も素晴らしいがその後に来る老いも素晴らしさがあると気付かせたい。
・人は青春を余りにも褒めちぎって持ち上げるから、そのあとは何か暗黒のものが来るという感じを持っているが年老いることがもっと素晴らしいと強く言わねばと思う。
・私は若い人の死に目によく会ってきた。病気、自殺、事故死などで、以前には自殺や不慮の事故死者がいた。不思議なことで自分に何か死を寄せ付ける不吉なものの存在さえ感じさせた。
・私は校長としての挨拶の始めに、皆に「今愉快かい?」とよく聞く。今辛いかもしれないけど、生きること、年老いることは楽しいのだと生徒たちにいう。若い人たちには生きている自体が素晴らしいと大人が教えてやることだ。
・父は発電所関係の仕事で、転勤が多かった。小3のとき、八尾近くに住んでいた頃のことを資料の初めに書いた。池に誘われるような幻覚に導かれて池に入り溺死寸前になったことがある。幸い、近くを通りかかった中学生に助けられた。そのとき臨死体験をした。その体験は肉親や知人から何度も聞かわれ、その後の私の生き方、考え方に影響している。死と生の繰り返し、これはその後の何度かの偶然の繰り返しで死の必然性への知覚を深めることとなった。
・これらの体験を重ねるうち、「助けられて死ななかったのは自分にはこの後、何かをなさねばならぬ使命があるからだ。その使命を果たさねば生かされてきた甲斐がない」と感じるようになった。これまで、会社、教員、生涯学習、校長とその時々で一生懸命やってきたが、これで良いのかと、本当の仕事は何かと迷った。図書館長はそれまで1年の現職を残しての就任が多かったが、私の場合は3年の現職を残しての異動だった。これはふるさと文学館の構想づくりなども関わっていたこと、あるいは県高校文化連盟の役員をしていたことや富山の文学百選に携わっていたこともあるようだ。その時点で自分の仕事に自分に与えられた人生の使命感をこれまでになく強く感じた。
・繰り返せば、幼い頃から死が体のどこかに付着していた。子ども特有の残虐さからか昆虫や虫を捕まえて友達と殺し方を楽しんだ。しかし何時しか反省めいたものを心に宿していた。しかし今の子どもは死を頭でしか理解できない。幼少から大人に至るまで今の子どもは死をアニメ的にではなく、何かの形で悲しく、辛いものであることを実感する必要があると思う。
・私は幼少の頃、洗顔時に口から血を出し、結核と診断された。結核の母の影響もあったと思う。レントゲン検査のあるたびに残されるので嫌な思いをした。
・小学4年のとき黄疸を患い、5ヶ月ほど入院した。昏睡状態も続いた。自分は死ぬのかと思い続けた。死への一種の親しみのようなものを覚えると同時に死への不安、恐怖を覚え、夕方になると怖くなり、ナイフを持っていたりした。ある日病院内の廊下で見かけた同じ年頃の患者がその翌日に亡くなってショックを受けたという経験もあった。
・母が借りてくる貸本屋の本の殆どを読みつくした。読むことに興味を持ったことが不幸中の幸いで、それ以来、本から離れられなくなった。
・中学校へ入った後も、死が怖かった。体育の時間も見学することが多かった。中学時代、「次郎物語」を読み、「白鳥蘆花に入る」の言葉の意味を考えたりした。
・大学時代では死への不安を拭うために武道や登山に打ち込み、自分を精神的に鍛えようとした。
・就職、結婚、親族の死やその死への怖れなどを経験していく中で、生への不信を拭いきれないまま、宗徒としての信仰は持てないながらも自分を超えた大きな存在への加護を求めるようになっていった。
・定年を控えた今、これまで生かされてきたことの大きな意味を感じるようになっており、それを使命として今後の人生を生きたいという願いが真摯なものになりつつある。
・なお、木崎さと子の『青桐』、井村和清の『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』の作品に込められた、いのち観について言及、死に行く者の心に生まれる浄化の働き、看取る者の心に湧く大いなるものへの尊崇の念の働きなどについて指摘あり。

( 3 ) 研究協議                      15時20分~15時50分
・会員が経験した臨死体験や肉親の死の看取りで感じたこと、あるいはガンの手術後に抱いた人生観の変化、さらには近年の児童の死生観について意見発表と講師の助言あり。
( 4 )  諸連絡                       15時50分~16時00分

以上
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by toyama-inochi | 2010-12-15 23:38

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